『CMナウ』がナウかった頃【新保信長】新連載「体験的雑誌クロニクル」11冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」11冊目
巻頭は「POSTER GAL 1982」と題して、斉藤慶子(日本航空)、尾関由紀子(全日空)、早見優(旭光学ペンタックス)、三田寛子(カルピスソーダ)、ジャネット・リー(昭和石油)ら、キャンペーンガールたちの写真をズラリと掲載。「ブラウン管に映らない舞台裏」では、表紙にもなった松田聖子のポッキーCM、原辰徳の明治チョコレートCMなどの撮影現場をリポートする。「NOW&HOW TO CM」のコーナーでは、ハムが蝶のように舞う「日本ハム超うす切り」のCMなど最新トリック映像の種明かし。CM美女(美少女)とCM舞台裏はその後も同誌の主軸となった。
そして、モノクロページのトップ記事は「ザ・イトイ」。原宿セントラルアパートにあった東京糸井重里事務所訪問記、糸井の一日密着取材、糸井重里解剖図鑑など、糸井のすべてを教えちゃおう、というわけだ。こんな企画が7ページにわたって掲載されていることを見ても、当時の糸井人気のすごさがわかるだろう。
ほかにも「タモリ教授のCM講座」「桑田佳祐の広告狂騒曲」といった新進気鋭の売れっ子たちのインタビュー記事、原田治(イラストレーター)、稲越功一(フォトグラファー)、土屋耕一(コピーライター)ら人気クリエイターの仕事場紹介など、なかなか豪華な誌面。桃屋のアニメCMやマルちゃん「赤いきつねと緑のたぬき」などのロングランCMを振り返るコーナーもあり、巻末にはなぜか『気まぐれコンセプト』の再録があった。
この1号目には「VOL.1」などの記載はなく、次号予告もない。が、翌83年2月に「VOL.2」が出た。編集後記には〈お待たせしました。“ようやく”のCMナウ第2号です。昨年3月に第1号を出し,その時大勢の方から,定期的に出してほしいという読者アンケートをいただきました〉と記され、ここから継続刊行となる。
左綴じだった第1号から右綴じに、値段は980円から780円になり、誌面も雑誌らしく整理されたが、内容的に大きくは変わらない。表紙と表4広告が連動しているのも変わらず、VOL.2は斉藤慶子×日刊アルバイトニュース、VOL.3は美保純×マイルド白楽(焼酎)、VOL.4は中森明菜×キヤノファクスミニ、VOL.5は松田聖子×ミノルタトークマン(音声ガイド付きカメラ)といった具合。人気絶頂の女優やアイドル歌手の決め顔どアップの表紙は、当然ながら目を引く。石原真理子が表紙のVOL.6(84年秋号)からは季刊誌となった。
面白いのはやはり、特撮&トリック映像CMの舞台裏だ。CGで何でもできてしまう今と違って、知恵を絞ったアナログ手法には感嘆する。フィギュアスケートの渡部絵美が部屋の中を壁から天井へとぐるぐる回る東京ガスファンヒーターのCM、巨大なピンポン玉が飛び交う卓球台の上をおじさんが歩く東京海上火災のCM、「大きくなれよ」の巨人が出てくる丸大ハンバーグのCMなど、今も記憶に残るCMの撮影秘話は新鮮だった。

最近、海外で動画がバズったらしい乾電池のCMは、何の特撮もトリックもない愚直な発想によるものだ。おもちゃの消防士人形が高層ビルに掛けられた120mのハシゴを電池パワーで昇り切る。ビル壁面へのハシゴの設営に始まり、昇っている姿をいかに臨場感をもって撮影するか、その一部始終を追った記事は読みごたえあった。
CMに登場する女性タレントやアイドル、モデルにスポットを当てたコーナーも売りのひとつ。毎年夏号では各社のキャンペーンガールを特集するのが恒例となり、令和の今では考えられないセクシーCMを集めた記事もある。85年には年度版「CM大賞」企画もスタート。最初は編集部セレクトだったが翌86年からは読者アンケート方式になり、栄えある初代1位に輝いたのは、中田とみ、水島かおり、富田靖子が三姉妹を演じたNTTウィークエンドコールだった。
この雑誌を、私は創刊からほぼ毎号買っていた。買っていただけでなく、投稿までしていた。VOL.4からスタートした「コピーレッスン・ナウ」というコーナー。課題に応じた読者作のコピーを、真木準、日暮真三、梅本洋一といった知る人ぞ知るコピーライターが選考と講評を担当する。そこに何度か応募していたのだ。
しかも、一度だけだが名前が載ったことがある。VOL.14(86年秋号)、岡部正泰氏が講師の回だった。課題は、3枚の写真と4つのクライアント&商品の中からひとつの組み合わせを選び、そのコピーを考えるというもの。詳細は省くが、私が選んだのは「おかめとひょっとこのお面のキス」写真と昆虫採集専門店「虫遊社」の組み合わせだった。
結果的に、その組み合わせは入選者なし。ただ、〈これも難しいだろうね。この組み合わせ選んだ人が少なかったものね。(中略)その中で敢えて挙げるとすれば〉ということで挙げられた4作のうちのひとつが私の投稿作だったのだ。
非常に恥ずかしいが、この際だから発表しておく。そのコピーとは…………「ぼくは、きみに、夢虫。」。
ああっ、いかにも80年代な句読点が今となっては超ダサい! 選評にいわく、〈まあ、ダジャレでかわすというのも、ひとつのテクニックではあるけれど、どちらにしても、まだまだ〉。いや、ホントすみません……。これぞ黒歴史というやつだ。

とはいえ、まがりなりにも名前が載ったのは正直うれしかった。当時の私は大学4年生で就職活動の真っ最中(今と違って昔の就活はのんびりしてた)。マンガ編集者になりたくて各出版社を受ける一方、コピーライターへの憧れもあり、広告代理店もいくつか受けていた。それこそ電通や博報堂も受けたのだ。出版社では講談社、集英社、小学館、マガジンハウス、徳間書店ほか、いろんな会社を受けた。が、筆記試験や一次面接は通るものの、二次面接以降でことごとく落とされ、それなりにヘコんでいた時期である。たとえ〈まだまだ〉だとしても誌面に載ったのには少し救われた。